高松堂日誌

日常や創作やおふねについての雑記帳

漫画「大脱走」完結!その雑感

 2年くらいかけてダラダラと描いていた企業擬人化漫画「大脱走」が完結した。

 

 本当~にダラダラ描いてたよね……と思う反面、一応「完結」というテイを成したのでほっとしている。だいたい145頁ほどである。フルカラー。

 

www.pixiv.net企業擬人化連作漫画「大脱走」[完結]

 

 4話以降からいきなりページ数が増量して雰囲気が変わったのは、「漫画の礼儀」を察し始めたことによる。

 漫画の礼儀というのは、たとえば、「短編連作漫画」は「短編の物語が連なっている漫画」であり、「話の出来損ないの切れ端」が時系列にまとまっているだけの冊子ではない……などの、まあなんというか、漫画に対する感覚的な理解だ。

 あるいは映画で言うエクスタブリッシングショットはコマの中に存在しているか(人物や物がどの場所にいる・あるかちゃんと分かるか)、詩的なセリフによる共鳴ではなく話のキャッチボールができているか、ふきだしはコマからはみ出ていないか、そもそも話や、背景に描かれている物体に矛盾はないか、などなど。

 漫画は頭を使って、姦計を張り巡らせて描くことが重要なのである。

 1コマからふきだしが出ていると見づらい、などの知識はたまたまRTで流れてきて知っただけなので、教本などをもっと読まなくては、と思った。

 

 

 ところで「大脱走」のあとがきにも触れたい。

 

 

 

 この物語は未来への再起の話です。
 そうあった、敗戦を迎えた日本郵船を擬人化した漫画を描いています。
 精神的また物質的喪失から立ち直るまでの過程、を、同じくそうあった敗戦後の海運会社に投影してこの物語を描きました。
 戦時下の貨客船を思うとき、そのあとの戦時補償特別税のこと、そのあとの長い敗戦後をいつも考えてしまいます。

 幸せか悲しいかの二極化ではなくその波間を揺蕩うような話を目指しました。その曖昧さは、激烈なショックやトラウマが襲った時に呆然とするような、「空白」との類似を感じるからです。またその両者は似ているだけで明確に違うことも意識しました。
 また今作は意図をもって黄色人種を黄色に塗るよう努めました。戦争の終わりを特別な意図による以外は「敗戦」と表記し、またその事象をそのように扱いました。
 敗戦直後の彼らは戦争を総括できていなかったのではないかという見解に立ち、国策海運が惨禍と報復を招いたという苦痛と共にあった、「東京裁判は勝者の裁き」だという一定の日本人の解釈を反映することも忘れなかったつもりです。
 戦争を俯瞰できなかった者たちの群像劇を私自身も俯瞰せずに描こうと心掛けました。戦後80年という地点に立つ人間の感情に選別、あるいは裁きを加えないように努めました。また外野から他人事に、他人の会社に対して図々しく説教するような物語はなるべく避けようと一定の自律は行いました。
 敗戦という物質的に何もない状況を美術的に美しく描こうと努めました。またそれをあえて美しく描くことについての意味は弁えているつもりです。この状況を「全てを失った悲劇」とえがくか、「長くあった資本と帝国の末路」とえがくかを逡巡し、常に自問しながらえがきました。所々意図しなかった私の失敗も見えるでしょう。倫理的に美しくないはずなのに、感情的に「美しく」なってしまった部分も多々あります。
 自律したうえで自律しえなかった、多くの越権行為をこの物語では行ってしまいました。

 終戦の時、日本海運は多くのものを失いました。その再建を思えばいまは苦労話と「美談」の一つです。でもそのまま潰えて終わる可能性があったこともまたつよく思ってしまいます。
 その喪失に反発し、受容し、再起する過程の話を描きたかったのです。

 この物語の連載前後の2023年でサークル「高松堂通信」の活動が10周年でした。この10年間、いつ死んでも怖くなかったのですが、この漫画の連載中は死んだら「大脱走」が完結しないのだと思うととても怖かったです。これは初めてのことでした。そういう事なんだと思います。
 最近はいままでに失ってきた多くのものを思い出します。

 

「日本郵船さんは敗戦ではぶっ倒れないけど課税100パーセントで絶対ぶっ倒れているよな…」というなんとなくの感慨を、10年前に漫画にしたなら、おそらくひたすら御社が傷心して苦しんでいるだけの「誰も救われない」話になったと思う。

「年を取ると実生活が回って来て、キツくてつらい話が読めなくなるのじゃ……」という、老人会の皆さんの言をよく聞くのだけど、私はその理由が本当に本当なのか、を保留にしている。

 というのも、単純につらくてキツいだけの話って物語としてつまんなくない……?と思うからだ。

 単調に苦しんで、泣いてばかりで、転落し続けて……。

 そこに抗いや努力はないのか?努力して抗った結果に失敗して、そこにぽっかりと何もなくなって終わる、いわゆる鬱エンド話は、一種の自罰的なエクスタシーはあるものの、物語の構造的に「うつくしい」のだろうか?

 あるいは登場人物が失敗するのはいいけど、その失敗を「つらい」「キツい」の一言で形容しきれる物語は、物語として単純すぎないか?失敗する話にもうつくしいものはあるはずだし、そこを丁寧に掬って描いてこそ、1つの物語なのではないか?

 おそらく老人会の皆さんも、つらい話は消化できると思うのだ。長年のオタク経歴により目の肥えた皆さんのいう、読むのがつらい「つらい話」の多くは、登場人物が雑に失敗して雑に苦しんで雑に終わるだけの、雑な物語のことなんじゃなかろうか。

 なので、敗戦という「失敗」に直面した御社が苦しむ「つらくてキツい」話を、丁寧に掬うことをひたすら心掛けた。

 つらかった中にも、さまざまな感情があることを意識して描いた。「『大脱走』ってつらくてキツい話?」と聞かれたら、「う~ん……登場人物がいっぱい逡巡してる感じ……(私も感想を逡巡する……)」となるような、とにかく複雑な様相の物語になるように努めた。

 

 擬人化の日本郵船は6話「いま再びの地獄」でふたたびの「地獄」に直面する。その地獄とは、自分の船を暴力的な世界に差し出すことだ。

 御社は氷川丸が何気なく言った真理の一面を突いた言葉(「あれも一つの出征」戦争へ行くこと)にうちのめされて、再び同じ過ちは繰り返さない、と、慌てて船=娘のもとに走り出す。攫ってあてどなく走り回り「大脱走」する。それは「戦前から続く旧体制」からの逃走でもある。

 この「大脱走」に、今の私がどこまで、今の私の視点=歴史の俯瞰を投影するかについては悩んだ。

 再び同じ過ちを繰り返してもおかしくない時代だと思った(ゆえに「敗戦直後の彼らは戦争を総括できていなかったのではないかという見解に立ち、国策海運が惨禍と報復を招いたという苦痛と共にあった、「東京裁判は勝者の裁き」だという一定の日本人の解釈を反映することも忘れなかった」)し、存外、御社はそれでもこれからもうまくやれたのではないか?とも思う。

 とはいえ、それは物語の構造的に「うつくしい」のだろうか。戦後はもう80年も経つのだ。

「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」の水木はすべてのツケを払ったからこそうつくしいのである。なんとなく生死の運命をごまかして、あの父親たちが無事に村から帰れたとしても、それは「戦後80年的に」「水木しげる漫画作品的に」まったくうつくしくないのだ。

 また美しさといえば、これは貨客船ものなので、「視覚的・美術的な美しさ」と「倫理的にうつくしくない状態を、視覚的・美術的・感情的に美しくえがく」ことはなるべく努力して分別したつもりだ。

 これは、美しさを誇ることがそのまま国威になった、国土の延長たる船たちの話でもあるのだ。

 

 ところで『大脱走』合冊版を出したい気持ちもある。すべて未定だが、もし合冊版を出すのなら2話ほど追加話を挿入したい。

 ひとつは、『二引の旗のもとに』に占領軍の海運会社への政策ヤバヤバだったよ~♪と書かれているのだけど、有吉義弥の本を読むとヤバとヤバの間にも日米間のやり合いや交流、思いやりがあったという事が分かる。

 占領下の海運は厳しかった、という「被害」的な面しか触れられなかったきらいがあるため、それに少し触れてみたい。

 もう一つは、関係者だった宮岡公夫の逸話に(ぼかしながら)触れたい。響乗組員の時、病院船氷川丸に招待され、ご馳走になったことが、御社の入社を志した要因にもなったとのこと。このような逸話は無数にあったのだろう。それらふねの物語を、広がりを持って触れてみたい。

 

 すべて仮なので、紙で欲しい方はまずは既刊の上中巻とこれから発行予定の下巻を揃えて下さればと思う。

 長々と書いた。お読みいただきありがとうございました。

 

(この記事は後日加筆して、サイトの記事として投稿するかもしれません)