高松堂日誌

日常や創作やおふねについての雑記帳

概念!擬人化!頭のなかで再生産されたナニカ……の話

 当方、擬人化オタクです。

 

 擬人化をやっているのだけど、擬人化というものにそこはかとなく違和感を覚えつつやっております。

 特に擬人化with歴史創作は本当に難しいです。擬人化という創作が難しいという意味ではありません。擬人化創作を通して歴史を描写していくことに対して自分が許せなくなってくるのです。

 だいたい歴史創作民は「歴史で創作すること」に対しての機微に敏感です。一応民の端くれを自認しているのですが、個人的に「歴史創作」という名前自体も若干の理解の揺れを生みそうな気がしています。良い意味でも悪い意味でも想像力も広がるし……。本当にうるさいし、まあ逆にうるさくないと歴史創作なんてできないのですが……。

 うるさいというのならば、一定の権利を尊重することにも「うるさい」人が多いです。人間に対して思慮深い人が多いです。たとえば「××人はどいつもこいつも騒がしい」みたいなことを私が言ったとしたら、私のことを気持ち悪く感じるであろう人が他ジャンルより気持ち多めが気がします。一つの集団に対して画一的な評価をすることを好まない。なぜなら歴史の研究では真反対のことをしなければならないからです。

 最近自分で悲しいのが、主語が「艦」「船」になっている話が自分のなか増えていることです。主語がでかいし、いわゆる概念の話になっています。そもそも〈概念の話〉って言い方がおかしいのですが。重巡は戦闘狂っぽい、とか特設艦船は故郷喪失、越境文学っぽい、とかこれ別に〈《概念》の話〉と名称すべきものじゃないでしょ……。

 ただ単に知識の刷新の努力が不足していて、歴史やミリタリーにあるディテールを忘れはじめていて、うろ覚えの脳でぼんやりとしたイメージを再生産しているだけのふざけた繰り言だ。

 

 しかし擬人化という手法はそういった〈概念の話〉に若干似ています。主語がでかく、画一的な評価を下すことに似ています。

 というか、似ているも何も言ってしまえばそういう描き方でもあります。

 

 じゃあなんで擬人化をやっているの?

 一つ、は、「その時代」に対するトピック*1たりうる実在人物の不在を感じる時に擬人化キャラを立たせています。
 二つに、何かと何か(艦と艦、企業や企業)の関係性を描きたい時に擬人化をしています。

 三つに、歴史に実際にあった人びとの究極の第三者――不完全な傍観者――として描きたい時に擬人化創作をしています。
 三つ目がまあまあ重要で、こう……凪いだ湖に投石するような、そんな気持ちで描いている。いまは凪いでしまった静かな湖をかく乱して、太陽の光を乱反射させたり、意外と深いじゃんとか思ったり、どれくらい青いのかなと確かめてみたり……。昔は戦火に燃えてあんな真っ赤になっていたのにね~みたいな。

 みたいなもの。擬人化は石ころである。時代の歯車に挟まった違和感の砂である。そんな気持ちで描いています。

 ただ、擬人化をする時に「ディテールを忘れた結果ぼんやりしてしまっている話」と「ディテールを熟知したうえでの抽象化した話」は全く別なので、そこは弁えないと単純に詰んでしまうし、それは読者にも伝わってしまうと思いました。

 

 追記・三つ目の理由は、実は夢小説(にはあまり詳しくないのですが…)にも共通するのではと思っています。架空キャラは原作という湖へ投入する石ころです。

 

*1:どうでもいいが「時代(仏:エポック)」と「主題(英:トピック)」って似てるので何かで描きたい。